「インターネット持仏堂1 いきなりはじめる浄土真宗」内田樹/釈撤宗


アンテナに入れておきながら、
内田樹の研究室」に「持仏堂」があったこと、知りませんでした…
インターネット書簡形式で進む本書。
まだ半分しか読んでませんが、
炸裂する「ウチダ節」に釈先生タジタジ(汗)みたいな印象を受けてます。
別にバトルを期待して読んでるわけじゃないですけど、
一応、浄土真宗素人がお坊さんに法話をいただく(?)という設定だし、
博識な内田先生に「目からウロコです!」と言わせたいじゃないですか(笑)
そんなワタシは素人以下なので、偉そうに言える立場ではないっす。
釈先生による仏教用語の説明はタイヘン勉強になります。


で、内田先生による「その5 宿命論」で、シンクロニシティについてのお話がでてきます。
前にもこの日記で「シンクロニシティって不思議さなー」と書きました。
その不思議さとは、フロイトが言うところの「不気味さ」であると説明してくださってます。
シンクロニシティは見えざる宿命を暗示するがゆえに「不気味」だと。
何かの必然性を指示しているのだろうけど、どうしてそれが必然であるのかが理解できないというあり方が「不気味」なのだ。
宿命を一望俯瞰することなどできない(それができたら宿命は機能しなくなるし)。
けど、シンクロニシティは宿命を覆い隠す(物語)の「破綻」から吹き込むすきま風だ。
「破綻」というcrackを直感するのだ…というような内容です。


「宿命」というと因果応報やら「運命論」やらと、自由意志を否定するような感じですが、もちろん本書ではそういう通俗的な意味のみで用いてはいません。この点については、どうぞ読んで確認してくださいませー。


ただ私の感想としては、
シンクロニシティという不気味な体験を単純に楽しめばいいんじゃないかい、
と結局またここに落ち着く(笑)。
自分の都合の良い偶然には「これって運命かもー」と思って、「crack見ちゃったよー」と考え、都合が悪い場合は、「これは必然的偶然ではないのだー」と偶然を記憶から抹消しよう。そうしよう。


いきなりはじめる浄土真宗 (インターネット持仏堂 1)

いきなりはじめる浄土真宗 (インターネット持仏堂 1)